「啓和寮」開設30周年

 9月8日、久喜けいわ創立30周年記念式典が開かれて、出席してきました。
 30年前の1988年7月に「精神薄弱者更生施設 久喜啓和寮」として開所し、最初は定員50人でしたが、今は清久地区を中心として、グループホームや生活支援センター、ワークハウスなど12の施設、相談支援センター(ふれあいセンター)、市の障害者施設4か所の指定管理を受けるなど、久喜市の知的障害者福祉の中心として牽引しています。
 開設当初から、元国立コロニーのぞみの園をおやめになられて、故・池波雪枝先生が常務理事・施設長として先頭に立って運営されてこられました。
 当時、私の大学の後輩がのぞみの園に務めていた関係もあり、池波先生にはいろいろと教えていただきました。
 ある意味では、池波先生が、久喜市の障害者福祉行政をリードしてこられたと言ってもいいと思っています。
 30周年式典では最後に、理事長から、池波先生のご家族に「感謝状」を贈呈されていた(写真)のが、印象的でまた感動的でもありました。
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 一つ思いだしたことがあります。
 それは、1986年、啓和寮がこの地域に開設を決めて準備を進めていた時に、周辺から反対運動が起こり、市議会に「精神薄弱者更生施設久喜啓和寮建設反対」の周辺住民318名の署名で陳情が提出されたことです。
 そこには反対理由として、「新興住宅地のため(民家が隣接している)」などと書かれていました。
 さすがに文章上にはっきりとは書かれてはいないものの、議員のところに説明に来た住民からは、「精神薄弱の人たちが道路を歩き回ったら怖い」「子どもが危険な目にあったらだれが責任を取ってくれるのか」などの露骨な偏見の声が上がっていたのを覚えています。
 当時はまだ、「知的障害者」と言わずに「精神薄弱者」と言われていて、“何を考えているか、また何をするかわからない人たち"と思われていたのでした。
 市議会で、私や、久喜市手をつなぐ親の会会長をしていた内田議員たちとも相談をして、この陳情を受け取ってそのままというわけにはいかない、議会としての態度を明確にしなければならないと意見がまとまりました。
 そこで、86年12月議会で、逆に「精神薄弱者更生施設久喜啓和寮建設促進に関する決議」を提案して全会一致で可決して、建設を推進していた啓和会や障害者の保護者の皆さんに対する市当局の支援を強めるよう求めました。
 その半年後には周辺住民も建設に合意し、2年後の1988年7月に啓和寮がスタートしたのでした。

 実際に開設した後には、池波先生が先頭に立って、啓和寮の人々が積極的に地域に出て行き、啓和祭りなどで地域の住民といっしょに地域で暮らしていく努力をしていって、あっという間に地域に溶け込んでいきました。
 障害者が別に怖い人でもないことはすぐにわかってもらえましたから、入所者が地域の方の家に黙って入り込んだこともあったのですが、それでも怒って怒鳴り込んだりされることもなく、自然に受け入れてくれるようになったそうです。

 それまで、久喜市議会で知的障害者と地域との関わりなど議論になることもありませんでした。
 ですから、この 「決議」は、久喜市の障害者福祉行政において、「ノーマライゼーション」の画期をなす歴史的文書になっていると言っていいでしょう。

  精神薄弱者更生施設久喜啓和寮建設促進に関する決議
 精神薄弱者の福祉については、国や自治体の責務として国民に理解を深めることや、精神薄弱者に対する更生の援助と必要な保護の実施に努めなけれぱならないとなっております。さらに、1971年12月20日、第26回国連総会においても精神薄弱者の権利宣言が決議されているところであります。
 折しも、久喜市上清久地内に建股が計画されている精神薄弱者更生施設久喜啓和寮(仮称)(社会福祉法人啓和会)の実現については、市内はもとより近隣在住の精神薄弱者やその家族からも大きな期待が寄せられています。精神薄弱児(者)にとっては、養護学校など卒業後も就職は困難であるとともに、精神薄弱者の親の高齢化を含めて、将来の生活不安などから安心して生活できる場の確保が重嬰であり、そうした要望に応えることは行政や地城社会の重要な責任であります。
 しかしながら、久喜市及び県東部にはこれまでこうした施設がなかったこともあり、福祉関係者や養護学校関係者、なによりも精薄者を持つ家族からも施設実現に対する熱い要望がありヽ久喜啓和寮(仮称)の建設はぜひとも、早期実現に向けて推進しなければなりません。
 市当局は設置主体の社会福祉法人啓和会と協力し、地域住民の理解を求めながら積極的に建設実現に向けて援助、努力されるよう要望します。
 右、決議します。
 昭和61年12月18日
                    久喜市議会